政治とは、何なのか。経済とは、何なのか。これに答えることは容易ではない。ある人は「政治とは友愛である。」といい、ある人は「政治とは、他者を受け入れることである」という。しかし、政治にしても経済にしても決して忘れてはならない基本理念がある。それは、「弱者のため」になされるものという点である。
強者に政治はいらない。なぜなら、強いものが生き残り、子孫を増やすことは自然が立証している。しかし、弱者は政治がなければ強者に打ち負かされてしまう。弱者は、近代における立憲主義が確立することによって初めて生存権が政治的に保護され、ようやく政治がその本来の意義を果たすこととなったといえる。
しかし、現代日本では、その根底理念が覆されそうになっている。というのも、政治の表舞台に立つ人間が、鳩山一郎の孫と吉田茂の孫であり、彼らが楽しそうに党首討論をしているのを日本中の国民が当たり前のように茶の間で見ているのである。
考えてみれば、政治家というのは資格もなければ才能も必要ない。しかし、我々多くの人々は、政治家は特殊な職業と思って見ているのではないか。
「政権交代」なることが声高に叫ばれている。「政権交代」すれば、まるで万事解決するような言い方である。多くの国民は困窮し、政治が混乱している。すると人々はその状況を抜け出さんが為、キャッチーな政治言語に吸い付くようになる。それは8年前の「構造改革」も同じだった。「構造改革」すれば万事解決する。我々はそこに夢を見た。そして政権を小泉純一郎に託した。そして今見ているのが派遣村の地獄である。
私は8年前も今も、政治言語によって導かれる未来を期待していない。私は小沢信者があれほど無邪気に「政権交代すれば万事解決する」という幻想を抱いていることが理解できない。私は彼らが話す政権交代への期待を冷ややかに聞いている。
果たして15年前の政治改革とは、このレベルの二大政党制を目指して行われたものだったのか。
私は解散総選挙で自民・民主のどちらが勝つかということには全く興味がない。どちらも政治哲学は同じであり、違いはかつての自民党内の派閥間よりも小さい、微々たるものだからだ。来たるべく政界再編に向けて、政治哲学を持たない有象無象が永田町でせわしなく動いているのが連日マスメディアで報道される。そうした報道に出てくるのはいつも決まった人間であり、節操のない姿を公衆にさらしている。
自民党内の改革派と呼ばれる連中を私は嫌悪する。彼らは口先では偉そうなことをいいながら、何も行動していない。重要な場面ではおろおろと付和雷同で、全く責任感というものが欠けている。彼らは有権者の前では改革派を気取り、裏では大物議員に寄り添い、閣僚ポストの勘定でもしているに違いあるまい。そういう連中が、首相になったら、今の首相以上の醜態をさらすこととなるであろう。
しかし、メディアはそういう連中を持ち上げ、民主党と同じように、政治を変えてくれる存在かのように報道している。カップ麺の値段も知らない苦労知らずの世襲貴族の「改革派」が、どうして今の日本の弱者を救い、この国の格差を是正できるのであろうか。
メディアは彼らを「改革派」などと紹介するのをやめた方がいい。正しくは「世襲貴族・封建派」である。
現在の民主党も自民党も政策理念は「新自由主義」であり、言い換えれば、自己責任・市場原理主義である。
そこには政治の基本理念である弱者への配慮が全くもって欠けている。それは、政治家自身が世襲であるか、ブルジョワジーであることにより、そういう立場によってしか世界を捉えられていないことに起因している。日本は「改革派」の喜ぶ「政権交代」可能な二大政党制の誕生により、封建制へとまた一歩近づくこととなる。ここから真の地獄が始まる。我々は黙ってみているしか手がないのか。